謙虚さはいつ失われるのか
自分に自信を持つことは大事なことだ。しかしそれは、他人から学ぶものは無い!と確信する事とは違う。
自分に自信があるからこそ、他人の専門性に敬意を持って、より学ぶことにつながるのが、本来のはずだ。
いつもしくは何故、この「学ぶ謙虚さ」は失われてしまうのだろうか?
立場に惑わされること
とりわけこれは会社での事になるが、部下を持つとか、同期の中で一番早く出世するというような事をキッカケに、謙虚さを失う人達がいる。
私の中では、これが最大の謎なのである。
組織において、人はそれぞれの機能を担う事になる。どんなに賢かろうが、組織に存在するありとあらゆる課題、機会を網羅的かつ完璧にクリアする事は不可能である。
もし、そんな事が実現出来るのであれば、ひとりでビジネスをすればいい。
そうではないのならば、それぞれの環境において、最適化された解が導きだされているはずだ。
もちろん、傍目八目という言葉もあるように、客観的立場からの方が、課題や機会について効率的かつ効果的な手法が見える可能性はある。
それは、単なる思い込みや、固定観念に縛られていないからこそ生み出されている効果であり、ヒントは生み出せても、解になりうるかどうかは、検証してみないと何とも言えないものである。
やったことあることしかしない人
これに関連して、マウントをとりたいが為に、やったことしかやらない人というのが出て来る。
せっかくCFOになったのに、いつまでも経理仕訳を1円単位で検証したり、社内規程の誤字脱字チェックをやり続け、ミスを発見しては指摘する。みたいな事をやり続ける人達だ。
彼らは、本来やるべき仕事をしばしば放置する。そして、出来ない理由を部下のミスのせいにして、逃げ続けるのだ。
絶対成長と相対成長
私の娘がダンスを習っているのだが、ダンスのスクールでも同様の問題が発生するらしい。
ある振り付けで踊った際に、その姿を動画で録画し、コマ送りしながら、あなたのここが出来ていない。間違っている。私がこの中では一番上手い。みたいな。
新しいジャンルについては、挑戦せずに、失敗を笑う。
なんだこの内向き。
これについて、娘は、「不快だけど、そういう人がいるのは仕方ない。ただ、そういう人でも、得意なジャンルでは、いいダンスをするから、盗めるものは盗む。」と開き直っている。
「別に私は、このチームで一番上手い。と安心するためにダンスをしてるわけじゃなくて、やったことない振り付けや、自分がかっこいいと思う事が出来るようになるために習っているから」
そういうことか。視線の先がどこにあるのかが懸賞さの有無につながるのか!と学ぶ事ができた。
私の超えるべき相手は昨日の自分
目標を設定しクリアするというやり方ではなく、昨日の自分より出来る自分になる。というやり方の方が、謙虚さを失わなくて済むのではないか?
よく言う指数関数的成長ではないが、毎日1%の成長にコミットしていれば、見なければならないのは自分であるし、なにからでも学ばなければ、成長を継続するとこは出来ない。
となると、日記は必須
そう考えると、日記は必ずつけなければならない。そうでなければ、自分の僅かな成長を確認することは不可能である。
めんどくさいけど。