本質的価値とは代替不可能性
物事の本質的価値とは何か定義しようと何故だか思いついてしまい、ずっと考えていたのだが、代替不可能性にあるのではないかという結論にたどり着いた。
簡単な問い
会社の後輩が、親会社の株主総会と、授業参観日が同日になってしまい、どちらに出席するかを悩んでいた。
こんなのは即答だ。
授業参観日に決まってる。まあ、これは、たぶん価値観によるのだけれども、なんか、上司の心証とかそういうのにかけがえがないと考える人は、仕事を選ぶだろうし、子供にとっての父親は自分しかいないという事実に向き合える人間なら、授業参観を選ぶ。
生物学的事実として
私がかけがえのない一人の人間としての価値を有することを保証してくれるのは、子ども達くらいか。彼女たちにとって、血のつながりがある父親は、私以外に存在しない。絶対に。
これは生物学的に普遍なのである。つまり、彼女たちの父親としての希少価値がむちゃくちゃ高いということだ。
妻とは?
では、妻にとっての私はどうだろう。現時点では、夫であるが、普遍性はない。代替可能性はある。残念だ。
しかし、夫婦として20年近く過ごした人間関係という意味では、代替可能性は限り無く低くなる。
ただこれも、なかなか定義が難しいものではある。なぜなら、結婚○年目から、もはやATMとしかみなしてなかった。という話になるならば、代替可能性がぐっと高くなる。
こちらはかけがえのない妻と考えていたけれども、相手はATMと考えている。という関係の場合はどうなるだろうか?
この場合は、こちらにとっての代替可能性が低く、相手にとっては、いつでも代替できる。ということになるか。
存在価値と利用価値
いや、なんかだんだん悲しくなってきたな。
いるだけで価値って思ってもらえるのは難しいよね。恋愛中の恋人同士でくらいしか成立しない。まあ、そこも、利用価値しか見いださない人いるけどね。
価値判断を他人に依存したらおしまい
こちらが感じる価値と他人の感じる価値は異なって当たり前で、その価値とは、代替可能性の有無による話してきた。
生物学的血のつながりだけは普遍だが、
TOKIO&中嶋みゆき的人生のオールを任せるなを実現するには、可変であるそれ以外を他人がどう評価してくれているかでなく、自分がどう感じるかに重きをおけば良いということであり、人生とは実にSimpleである。